「夢を見ながら死にたい、とあなたは言った」  その@


 吉原悠子(よしはら ゆうこ)は煙草を吸っていた。六畳の狭い室内は煙草の煙が充満している。カーテンが閉められていて、朝だというのに室内は暗い。暗いせいだろう、ひどく湿っぽかった。
 悠子はぼんやりと煙草の煙を眺めながら、布団の上で仰向けになって倒れている川崎悠司(かわさき ゆうじ)の腹の上に頭を乗せた。悠司は全裸の上、全身血だらけで、体の至る所に刃物で切った傷や刺された傷があった。もう息をしていなかった。しかし、その生気の無い顔は、至福の喜びに満ちた顔をしていた。
「‥‥羨ましいわ」
 悠子は煙草を部屋の隅に投げ捨てた。そこには血が溜まっていて、煙草の火は血で消えた。
 悠子はひどく憂欝だった。体がひどく重く、何もする気になれなかった。昨日の情事の時、全ての力を果たしていた。でも、自分はまだ生きている。悠司は死んだのに、自分はまだ生きている。
 それは少し不平等だ、と悠子は思った。私もとっとと死のう。別にやりたい事などもう無い。生きている意味など無い。この人がいなくなった今、もう何も出来ない。
 そう思った悠子は、悠司の死体の近くに置いてあったナイフを手にした。ナイフには乾いた血がべっとりとついている。悠司の血もついていたが、悠子の血もあった。悠子も全裸の上、全身傷だらけだった。
「今から行くから」
 そう悠子は悠司に言った。


 三ヵ月前「「「「
 その日は雨が降っていた。空は今にも落ちてくるのではいないか、と思える程重く、灰色の雲をまとって、終わらない雨を街に降らせている。
 悠子はビデオレンタル店に来ていた。ここ最近、雨ばかり降っているので、悠子は何もする事が出来ず、暇潰しの為に来ていた。
 悠子は大学四年で、既に就職先も決まっていた。何の取り柄も無い彼女は、周りの学生と同じように就職セミナーに通い、小さな会社の就職が決まった。やる事は事務一般。彼女はあまりやる気がしなかったが、別段やりたい事も無かった。だから、そこに就職が決まっても落胆する事も喜ぶ事も無かった。
 悠子は自分では太っていると思っていた。しかし、実際は痩せていて、誰から見ても美人と言われる程の美貌を持っていた。栗色の髪の毛は肩を微かにかすめ、大きめの瞳は整形手術をしているわけでもないのに二重だった。
 しかし、彼女はまだ一人の男性とも付き合った事が無かった。付き合いたいとは大学に入った時から思っていた。しかし、誰からも告白されず、また自分も誰かに告白する事も無かった為、二十一になっても処女だった。
 少しは焦っていた。周りの友達は皆、その話ばかりする。悠子もまるで経験があるかのように振る舞う。悠子はそれが嫌だったが、でも、それを冷静に見つめている自分もいた。
いつかは誰かとやるだろう、ともう一人の悠子は考えていた。
 レンタル店内をうつろく。悠子に映画鑑賞の趣味は無い。しかし、有名な映画のタイトルくらいは知っていた。しかし雨の日くらいしかビデオを借りない悠子は、一体どの映画が面白いのか分からず、当ても無く店内をさまよった。
 ふと、アダルトコーナーが目にとまった。彼女は不意にアダルトビデオが見てみたくなった。あれは男の人が見るものだ、と友人は言っていた。でも、画面の中には男性よりも女性の裸の方がたくさん映る。実際のセックスとはどういうものなのだろう、と悠子は思い、アダルトコーナーに入った。
 そこで、悠子は悠司と出会った。
 悠司は真顔でビデオのパッケージを見つめていた。そして、一本を戻してはまた新しいビデオに手をのばす。それを繰り返していた。隣で女がその様子を見ている事にも気づいていなかった。
 アダルトコーナーには悠子と悠司の二人しかいなかった。悠子は黙々とビデオの品定めをしている悠司の横顔をじっと見ていた。悠子にはそういうのに興味があった。男の人はどんな顔をしながら女を選定するのか?
 悠子はその男の人が借りるビデオと同じ女優のビデオを借りようと決めた。
 しばらくして、悠司はビデオを決め、視線を棚から外した。その時初めて、悠子の姿を見つけた。悠子は黙って、悠司の持っているビデオを見つめた。
「それ、借りるんですか?」
 悠子は悠司の持っているビデオを指差して言った。悠司は明らかに不審そうな目で悠子を見返す。
「そうだけど、何なの?」
「いえ、別に。私もそれを借りようかなぁ、なんて思ったんで」
 そう恥ずかしげも無く言う悠子。悠子は冷めていた。男の人はこういうビデオを借りるのは当たり前の事だ。そして、女だってそういうビデオを借りる事がある。そう割り切っていた。しかし、悠司はそんな悠子が理解出来なかった。
「じゃあ、どうぞ」
 悠司はビデオを悠子に渡した。
「いいんですか? 凄く悩んでたじゃないですか」
「家、近くだから。あんたが返したら借りる事にする」
「そうですか。ありがとうございます」
 そう言って、悠子は悠司からビデオを受け取った。
 悠司には悠子が変な女に思えた。こんな所に一人で来て、男の自分からビデオを受け取る。相当な淫乱なのだろう、と悠子の横を通り過ぎた時に思った。
 悠司は仕方なく、洋画を借りる事にした。アダルトコーナーを出て、洋画のコーナーに向かう。前々から借りたいと思っていたビデオがあった事を急に思い出し、そのビデオがないか探した。
 その後ろから、悠子がついてきた。悠司は怪訝そうな顔で振り向き、悠子を見下ろす。
「まだ、何かあんの?」
「いえ、別に。他にどんなの借りるのかな、と思って」
 何の興味も無さそうに、悠子は言う。
 よく見ると美人だな、と悠司は思った。でも、こういう女には大抵男がいるものだ。このビデオも、おそらくその男と見るのだろう。だったら、何でこんなにちょっかいを出してくるのだろう。悠司にはさっきよりも悠子が変な女に見えた。
「興味あるの? 映画に」
「あんまり。あなたの借りる物にはあります」
「何で?」
「‥‥私も、この女優のセックスシーンなら見てみたいと思ったから」
 二人が知り合い、そして付き合い始めたきっかけは、そんな事からだった。


 悠司は大学を卒業して、コピーライターの仕事をしていた。出版社から依頼があると、その依頼に応じた文章を書く。定期的な仕事ではなかったので、決して楽な生活ではなかったが、食うに困っていたわけでもなかったので、ずっとその仕事を続けていた。
 二十三にもなって、悠司はまだ童貞だった。決して、もてなさそうな顔ではない。痩せ型だったし、顔も美形に入る方だ。大学時代はテニスサークルに入っていて、女性からは結構人気があった。しかし、告白を受けた事は一度も無かった。何故だかは悠司自身も分からない。でも、告白されないんだったら、自分の方からしても駄目だろう、と思って、何もしようとしなかった。
 悠子と悠司に共通して言えた事。それは現実はつまらない、と思っていた事と、性的経験が一度も無かった事だった。
 悠子と悠司は最初、付き合いとはとても呼べない付き合い方をしていた。
「すいません。遅くなっちゃいました」
 デートの待ち合わせの時、悠子は悠司にペコリと頭を下げる。悠子はいつも必ず十分から二十分程度遅れて待ち合わせ場所に来た。わざとそうしていたわけではなく、化粧に時間をとられて遅れていた。しかし、それを教訓にはせず、毎回必ず遅れた。悠司はそれを怒ろうともしなかった。いいよ、とだけ言うと悠子の手を握り歩きだす。それから映画を見て、二人を食事をして、そして別れた。その間、会話らしい会話はほとんど交わさなかった。
 一体、何が楽しくてこんな事をしているのだろう、と二人は手をつなぎながら思った。この人の事が嫌いなわけじゃない。どちらかと言えば、好きな方だ。でも、こうしている事に喜びを感じない。周りがこうしているから、自分達も同じ事をしてみようと思ったからやってみただけなのだ。そして、実際にやってみたら大して面白くもなかった。
 しばらく、二人はこんな事を続けていた。


 雨が降っている。梅雨の時期でもないのに、降っている。出会ったあの時と同じように、灰色の雲が空を覆っている。二人は映画に行くと金がかかる、という理由でビデオレンタル店に足を向けていた。二人が出会った、あのレンタル店だった。
「そう言えば」
 洋画のタイトルを眺めながら、ふと思い立ったように悠子は口を開けた。
「何?」
「最近、アダルトビデオ、借りてるんですか?」
 悠子の隣で悠司は、あっと声をあげる。
「借りてない」
「何でですか?」
「隣にお前がいたから、別にって思ってたんだ」
「でも、私達、あういう事まだ一度もしてませんよ」
「そうだな。それじゃあ、今からやろうか」
 悠子も悠司も他人事のように、会話を続ける。隣にいた主婦らしきおばさんが、異様な顔で二人を見ていた。二人はその主婦を無視して、ビデオレンタル店から出た。


 二人は駅の近くにあるラブホテルに入った。休憩は四千五百円、泊まりは八千円という看板がホテルの入り口に張ってあり、二人は金を出しあって休憩分の金を出した。
 室内は畳十二枚分のくらいの広さで、人が三人は軽く眠れそうなベッドが目についた。
ベッドのある部屋からトイレとバスタブに続く部屋があり、悠司は先に風呂に入ってくると言った。悠子は、じゃあ服脱いで待ってる、と返した。
「駄目だ。俺の後はお前も入るんだ」
「えっ? だって、昨日、家で入りましたよ」
「エチケットなの、そういうのは」
 そう言いながら、悠司はバスタブに向かった。部屋に一人残された悠子は、何をしていいのか分からず、ベッドに浅く腰掛けて悠司が出てくるのを待った。
 緊張はしていなかった。やっとだな、とも思っていなかった。まあ、いつかはこういう日が来る、と馬鹿に冷めていた。
 悠子は人生全部に、現実感が無かった。悠司と付き合っている自分が、本当に今の自分なのか自分でよく分かっていなかった。つまらない。その一言では片付けられなかった。
つまらないわけではない。悠司と一緒にいる事に苦痛は感じない。彼に抱かれる事に、後悔も無い。でも、それに強い幸福を感じないのだ。
 普通だったのだ。何もかもが。悠子は普通に満足出来ない女だった。
 入って十分くらいしてから、悠司は風呂場から出てきた。バスタオル一枚という姿だった。痩せていて、がっちりした体格だった。髪の毛まで洗ったのだろう、悠司の髪の毛は整ってなくボサボサだった。
「次、お前の番」
「うん。じゃあ、行ってくる。逃げちゃダメだよ」
 悠子は少し悪戯っぽく笑う。
「逃げたらできないだろ。待ってるから、早くしろよ」
 いつもと少し様子が違う悠子に、悠司は含み笑いをする。
「うん」
 そう言うと、悠子はバスタブへ向かった。
 悠司は煙草をふかしながら、悠子を待った。
 悠司は今が楽しいのか、楽しくないのか、分からなかった。確かに女とセックスが出来るという事は嬉しい事だった。でも、悠子を心から愛しているわけではない。嫌いではないが、それだけだ。それ以外の感情が無い。でも、それ以上の感情がどういうものなのか分からなかった。もしかしたら、今それ以上の感情があるのかもしれない。でも、それに実感が沸かなかった。悠司は実感が欲しかった。別に愛に限った事ではなく、生きている事全てに、強烈なまでの実感、体感性を求めていた。
 二本目の煙草を灰皿に置いた頃、悠子が出てきた。悠子もバスタブ一枚という姿だった。タオルの上からでも、腰のくびれがはっきりと分かった。栗色の濡れた髪の毛が、丸みを帯びた肩にぴったりと張り付いていた。
「お待たせ」
「ああっ」
 悠司は立ち上がると、何の余興も無く、悠子の唇に自分の唇を押し付けた。悠子はいきなりの事で、体が一瞬固まってしまったが、すぐに悠司の愛撫に答えるように悠司の口内に舌を入れた。ぬるぬるした感触が二人の舌を覆う。悠司は悠子の肩に手を回し、悠子は悠司の腰に手を回す。そこの感触を確かめるかのように、何度も何度も悠司は悠子の肩を、悠子は悠司の腰を撫で回した。
 一分程、キスを続けた二人はゆっくりと唇を離した。二人共、頬を赤らめてお互いを見つめている。
「ベッド、行かない?」
「‥‥そうだな」
 そう言って、二人はベッドに向かった。


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